40歳、工藤ユウキ。
気づけばもうそんな歳になり、もう亡き父はこの年齢で僕という子を授かった年齢になる。
自分が等の年齢になり、そして今もしも自分に子どもが産まれたら…そう思うといたたまれない気持ちと共に、愛おしく思ってしまうだろう。
世の中には40歳で孫がうまれることもあり得ないことではないのだ。
父は中卒後、15歳という年齢で田舎の山形県の田舎町から上京してきた。
運良くそこで電電公社(現NTT)に就職することができ、配達員として働いていたのだ。
元来、工藤家は痩せ型の体型ばかりのものかと思っていたが、その時の父は180センチの身長と、100キロ弱の体重と、まるでプロレスラーなのか?というほどガタイが良かったらしい。
そんな父は20歳代後半で胃潰瘍になり、胃を半分にしなくてはならない手術を受けることになった。
配達員と言う仕事柄、どうしても急な電報などで食事後にすぐ動かなくては行けない状況が続いたことでそうなったと記憶している。
配達員の仕事は体力勝負。
ましてや現代とは違い、その需要は非常に重要な役割を担っていたのであろうと想像ができる。
父はその手術の後に、体重が激減した。
100キロ弱あった体重が60キロ代まで減っていたのである。
そこで父は決意をする。
「このままこの仕事を続けていたら子が成人する前に死んでしまう」
と。
そして父は小さいながらも「印刷業」をはじめることにした。
齢30歳。
また生まれながらにして器用な部分があり、そして大の釣り好きだったのだ。
休みがあれば川へ、山へ、海へ。
早朝から出掛けては夜まで帰ってこないこともしばしばであった。
そんな父は器用な部分を活かし、海洋生物の『剥製』を作っていたのだ。
それは魚だけでなく、亀、サメ、さまざまな剥製が実家には飾られていた。
趣味の域では留まらず、テレビなどにも何度も出演するほどの腕前だったらしい。
今やその価値でさえ測れないものではあるが、当時は売って欲しい!という連絡がひっきりなしにきたそうだ。
そんなさなか僕はお腹の中でテレビに出演していたらしいが、もちろんそんな記憶があるはずもない。
大きくなってから両親から聞かされて半信半疑でいたものだ。
そして、父が剥製を作るときに、サインの代わりに書いていた文字がある。
【美生】
という文字だ。
歯痒かった。20代前半で両親を亡くし、心から信じられる人がいなくなった喪失感。若い時に大人から親がいないと舐められる日々。上を向くしかなかった。あの時あの時代があったから今がある。だから僕は遅すぎる親孝行のために定期的にここにくる。ありがとう。 pic.twitter.com/5nEJUFpbOW
— 工藤ユウキ 北千住の美容師 (@yukikudo_) August 27, 2021
墓石の右上にもその言葉が刻まれている。
生前にその言葉の意味は聞くこともなく、未だ謎がある言葉であるのだが
・美しく生きる
とストレートに捉えると、父の生き様はストレスなく自由に楽しく謳歌できていたのではないか?と僕は推測している。
仕事=嫌なもの
それが一般的には多数ではあるかもしれません。
ただ僕は父を見ていて一度そう思ったことはなかった。
普段から寡黙な父は仕事となると目を輝かせ、楽しそうに、そして、生き生きとしていたのだ。
父から仕事の弱音など一度も聞いたことはない。
それは僕にだからなのかも知れないが、そんな父の背中を見て育ったのもまた事実だ。
商人の才があった父ではなかったと思う。
ただ、それでも僕に仕事は嫌なものではないと、背中を通じて教えてくれた父。
「なんで俺は仕事がそんなイヤにならないんだろう?」
多くの人が阿鼻叫喚の中で過ごす毎日が、そんな背中に救われていたのだと気づいた40歳。
あの頃の父の気持ちはまだわからないけれど、40歳になった自分はこう思う。
永遠に愛おしい
言葉にするとチープにはなってしまうが、そんな気持ちを受けてきていたんではないか?と想像すると申し訳なさでいっぱいだ。
もうそんな父が亡くなってからもう18年が経とうとしている。
少しずつだけれど、貴方が僕に残したもの、伝わってきてる。
父は享年64歳。
僕からしたらあとたった24年だ。
どう生きるのか?どう死ぬのか?
人生でそんなことを考える日がたまにはあっても良いだろう。
終わりなき旅はない。
今一度1日1日を噛み締めて生きていきたいな。
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